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榎本恵牧師のコラム

2018/02/16

わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。   詩51:9


「降る雪のごとくに、わが内を白くし、なが旨のまにまに、練りたまえわが主よ」(聖歌295)詩編の第51篇は、7つの悔い改めの詩編と呼ばれるものの一つだ。自分の家臣ウリヤの妻バト・シェバに横恋慕し、不倫を犯すダビデ。子のできたことを知った彼は、忠臣ウリヤをあえて戦闘の激しい所へ送り、彼を戦死に追いやり、その妻を我がものとする。なんともおぞましい権力者の横暴に対して、預言者ナタンは、厳しくダビデに迫る。「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。」(サムエル下12:9)と。ダビデは激しく動揺し「わたしは主に罪を犯した。」と告白する。そしてその深く悔い改めたダビデに対し、預言者は「その主があなたの罪を取り除かれる」と答えるのだ。(サムエル下12:13)

「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」(詩51:2)という表題のついたこの詩編51編を、ダビデ自身が書いたのかどうかは、議論の分かれる所であろう。しかしこの詩の作者が、繰り返し繰り返し、その罪をぬぐってくださいと神に哀願する姿を、自らの犯した不倫の罪に苦しみ、嘆き、赦しをこうダビデ自身に重ね合わせてもおかしくはないだろう。

それにしても、昨今耳にする、芸能人や政治家、著名人たちの不倫騒動の多さに驚く。というよりも、それを興味津々、朝から晩まで見続けている自分たちの姿に辟易するのだ。大勢のカメラマンに囲まれ、記者会見し、あるものは開き直り、あるものは涙ながらに謝罪の言葉を繰り返す。憔悴し、うなだれ声も出ないほどのものに対しても、「どう責任を取るのですか」と厳しく詰問する記者の声に、ついつい「もういいではないか」と心の内でつぶやきながらも耳をそばだてている自分がいる。かつて晒し首や公開処刑が民衆の好奇心をかき立てたように、今やワイドショーや週刊誌が、その役割を果たしている。そしてそれをなんだかなーと思いながらも、見入ってしまう、そんな自分につくづく嫌気がさすのだ。

「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。」(詩51:5)この詩編51篇について、宗教改革者ルターは言う。「普通の人はこの逆で、「わたしは他の人の咎を知り、他の人の罪は常にわたしの前にあります。」と。他人の罪をあげつらうことはできても、自分自身の罪を深く掘り下げることのなんと難しいことか。人を指差す、その指の根元に自分自身の罪を見出さなければ、それはただ己の正しさだけを振り回す愛なきものの姿になり果ててしまう。

真っ白く降り積もる雪は、全ての汚いものを覆い尽くす。純白の雪景色は美しい。けれども、それもいつか融け、その醜いままの姿を晒す。どんなに綺麗なスターであっても、どんなに強い権力者であっても、隠れているものであらわにされないものはない。そして罪の問題は決して他人事ではない。なぜなら、誰一人それから逃れられるものはいないのだから。それは人ごとではなく、自分ごとであり、彼らの姿は、まさに自分自身の姿でもあるのだ。

自分の罪を知り、自分の罪に嘆き、自分の罪を悔い改めるものを、主は、雪よりも白く洗ってくださる。それは、汚いものを見えないように、雪で覆うのではなく、惨めなものを、この罪深いものを雪よりも白く、洗い清めてくださるのだ。

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