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榎本恵牧師のコラム

2018/05/10

わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。   ヨブ1:21


4月25日に、妹のてる子が天に召された。私とは一つ違いの彼女だが、大勢の人に愛され、けれどもどんな長寿を全うした人よりも、その生を生き切ったと思う。愛唱歌が歌われても、牧師の感動的な話を聞いても、友人たちの心のこもったスピーチを聞いても、涙も出なかったが、やはりだめだった。前夜式の最後、献花が始まった途端に流された彼女の在りし日のスライドショーに、やられてしまった。最初に、家族五人で映った写真が流され、そのあと唐突に妹と二人手を繋ぐ幼い日の写真を見た時、涙が堰切って溢れ出し、止まらない。55歳で死んでいった妹はやっぱり他人ではない。繋がっている、その片割れがもういない。

妹が亡くなるちょうど1ヶ月前、アメリカに住む息子夫婦に女の子が生まれた。名前は春という。まだ歯も生えず、髪の毛もない。けれども、生まれたての小さな命は、必死で生きようとしている。何かを探すように手で宙を探るこの子の動画を見た時、愛おしさで涙が溢れてきた。その手をしっかり握り締めたい。春と私は繋がっているよ。

闘病中の妹が、病室で看病していた康子にこんなことを言ったという。「お義姉さん、死ぬっていうことはお母さんのお腹の中にもう一度帰るみたいなもんよ」と。生まれる前と死んだ後。それはどこかで繋がっている。輪廻転生など、 クリスチャンの私は信じていない。けれども死後の世界があるならば、生前の世界だってあるはずだ。妹の前夜式の直前に起こった、突然の大雨と雷、そして約束の虹。この不思議を見たからには、私たちの生きている世界は見えているものだけでは出来ていないということは、自明のことだと思えてしょうがない。生まれたばかりの孫娘は、何一つ見えていないはずのその目をしっかりと見開いて、瞬き一つせず、どこか遠くを見つめている。まるで、自分の来た先を見定めているように。

旧約聖書のヨブは、一夜のうちに愛する家族を全て失い、持っていた膨大な財産もみな無くす。しかし、そこで彼は言うのだ。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と。常人の私には、とてもこのヨブの言葉を吐くことはできない。また誰かの死を前にして、主の御名はほめたたえられよなどと口が裂けても言うことはできない。けれども、けれども、このヨブの言葉を否定することもできないのだ。この言葉は真理である。生と死は一つ。死んだ後は生まれる前と繋がっている。裸で胎を出てきたものは、裸でまた胎に帰り、そしてそれは永遠に繰り返される。

妹のてる子と孫娘の春はつながっている。それはDNA云々などと言う言葉で片付けられるものではない。また、生まれ変わりだなどと言う陳腐な言葉で表されるものでもない。命は皆つながっている。あなたも私も、彼も彼女も、命は皆つながっているのだ。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。

時は川 きのうは岸辺 人はみなゴンドラに乗り いつか離れて 思い出に手を振るの
(松任谷由実「水の影」)

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