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榎本恵牧師のコラム

2017/04/17

あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。   マタイ7:2


「忖度」という言葉が、ここにきて話題に上ることが多くなってきた。日常では、ほとんど使われることなどなかったこの言葉が、まだ半年も経たないというのに、今年の流行語大賞間違いなしと言われている。テレビや新聞などのメディアは、今度の不可解な小学校の土地取得と認可の問題を、総理の奥さんの無防備で屈託のない笑顔と共に解説する。2ヶ月あまり続くこの話題に、ニューヨークでも、サンパウロでも、ロスアンゼルスでも、日系人に会うたびに、その意味を聞かれるのだ。どうも英語に訳すには、ふさわしい言葉がないらしい。しかしながら、きっと、この「忖度」とは、まさに私たち「空気を読み」、「長いものに巻かれ」、「見ざる、聞かざる、言わざる」日本人のメンタリティーをよく表している言葉なのかもしれない。

「忖度」の「忖」の字は、「心」を表す「りっしんべん」に長さを測るという意味の「寸」ででき、また「度」の方は、「ものさし」という意味があるのだそうだ。すなわち二つを合わせて、「基準となるもので相手の心の内はかる」という意味になるという。 今、私たちの耳目を集めている「瑞穂の国小學院」の問題は、まさに、その「忖度」によって引き起こされた典型的ものなのだろう。総理の奥さんが名誉校長を務め、「婦人付き」の 肩書をもつ官邸の秘書官からは問い合わせが来る。防衛大臣をはじめ、最近とみに勢いを増し、「我が世の春を謳歌する」と思しき勢力が、背後に見え隠れする中で、「ここは無理筋の案件ではあるけれど、言う通りにしておいた方が、得策だろう」と、忖度を働かしたと勘ぐられてもおかしくない。ましてや、許認可の決定権者である知事自身が「良い忖度と悪い忖度がある」と開き直っている有様。残念ながら、これが今の「美しい国日本」の姿なのだ。

イエスは、山上の説教の中で、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ7:1)という有名な言葉を与える。それはただ単に、「人のふり見て我がふり直せ」とか「人を裁く時は、気をつけましょう、あなたも同じことをするかもしれないからですよ」というような意味ではない。そうではなくむしろこの言葉の後に続く主の言葉にこそ、その真の意味があると私は思っている。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。(マタイ7:2)あなたの心の中にある秤は何なのか、あなたが基準として持つその秤は、どんなものなのか、私にはそんな主の言葉が聞こえてくる。一生懸命まわりの「空気を読み」、抜け目なく権力者に「忖度」を働かせ、分かっていても「見ざる、聞かざる、言わざる」を旨とする。それらの行動や考えを起こす私たちの心のうちの基準とは秤とはなんだろう。それは、自分にとって「損か得か」ということに尽きるのではないか。相手のことを慮るのも、自分のため。国のため、公のためと美しいお題目は唱えるけれども、やっていることは全て自分の利益を求めているだけに過ぎない。所詮人間なんて、そんなものよと、諦めの声がどこからともなく聞こえてくる。けれどもちょっと待ってほしい。たとえそうだとしても、イエスはこう言われるのだ。「あなたのはかるその秤で、あなた自身も量られるのだ」と。

連日報道されている、かつての仲間同士の掌を返したような罵り合いは、まさにその量った秤で、量り返されているものの姿を如実に現しているように、私には見える。そして、それを見るたびに、果たして私の秤は大丈夫かと思い返すのだ。お前の秤は、人によって伸び縮みしていないか。お前の秤の目盛りはいつも正しいか。そんな声が聞こえてくる。

さて、ギリシャ語では、基準をあらわす言葉を「カノーン」と言い、カトリックでは聖書全66巻の正典をカノンと呼ぶ。私たちクリスチャンにとって、聖書はまさに基準でなければならない。そして、私たちは、それによって神の思いを推し量らなければならない。それこそが、私たちの忖度なのだ。

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