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榎本恵牧師のコラム

2017/10/18

あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。   マタイ13:14


日光へ行ってきた。雨の中でも大勢の観光客が訪れ、さすが「日光を見ずして結構というなかれ」の言葉通りの場所である。念願の日光彫の小さな花台を買うことはできたが、もう一つの目的、新しくなった『日光東照宮』の『三猿』を見に行けなかったのが心残りである。

別に、私は名工左甚五郎について造詣深いものでもなければ、そこに祀られている徳川家康公に特別な思い入れがあるわけでもない。ただ、この「見ざる、聞かざる、言わざる」の『三猿』をこの目で見たかったからだ。実は、この『三猿』は、日本独自のものではないらしい。「ざる」の音と「猿」が韻を踏んでいるため、日本発祥のものと思われがちだが、世界中にこの『三猿」はあるのだそうだ。孔子の教え『論語』の中にも、「礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ」という教えがあるという。また、英語にも「Three wise monkey(三びきの賢い猿)」という言葉もあるらしい。中でも、私の興味を引いたのは、インドのガンディーが、この『三猿」の像を生涯肌身離さず「悪を見ず、悪を聞かず、悪を言わず」という「自戒」の言葉としていたということだ。

考えてみると不思議なもので、私たち日本人には、自分にとって都合の悪いことは、見ても見ぬふり、聞いても聞かぬふり、そして言いたくても言わぬ方が良い、という処世術として解釈されがちな『三猿」の教訓を、ガンディーは全く反対のものとして受け止め、自分を戒めていたのだ。「悪を見ず、正しいものだけを見、悪を聞かず、正しいものだけを聞き、悪を言わず、正しいものだけを言う」。「悪を見ず、悪を聞かず、悪を言わず」とは、まさにこのガンディーの生涯を貫いた生き方そのものだったのではないか。大英帝国の植民地からの独立運動を非暴力で成し遂げ、何度も投獄されても、自分の信念を曲げず、同時に「目的達成のためには手段を選ばず」と、暴力に訴えようとする仲間たちに対してにも、頑なに首をたてにふらなかった。「非暴力無抵抗の抵抗」とは、ガンディーにとってまさにこの「三猿」の教えそのものであったのだ。

私たちのアシュラム運動の創設者スタンレージョーンズ博士の書かれた本の中には、ガンディーに対するこんな記述がある。「しかしお互いの間には深刻な思想の違いがあった。それにもかかわらず、私は彼に惹きつけられるある種のものを感じた。彼の結論に達するに至った精神的過程に私が同意できない場合でさえ、彼は事態の正しい面から出発しているのだと思ったし、また誤っていると気遣われる時でさえも、彼は結局正しい方法をとっていた。彼の霊性は知的過程を超越し、物事の正しい面から出発していたのである。」(「マハトマガンヂー」より)

キリスト者であるスタンレー師にとって、ヒンズー教徒のガンディーと全ての点で合致することはできなかった。しかし、彼はガンディーの中に、宗教や思想、哲学といったものを軽々と乗り越える「正しさ」を見出したのだ。「悪を見ず、悪を聞かず、悪を言わず」とその生涯を貫き等したガンディーの正しさ、それをスタンレーは、イエスキリストの教えと通底するものだと悟った。「(ガンヂーは)おそらく東西両洋のいずれの人よりもより多くキリストの精神を私に教えてくれた。」とスタンレー師はその著書の中で語っている。

さて、両手で目を覆い、耳を塞ぎ、口に手をあてる「三猿」を、現代を生きる私たちはどう見るのか。世渡り上手な生き方の手本としてそれを見るのか、またなんの揉め事も起こさぬ賢い生き方の見本としてそれに倣うのか。それとも…。

いや、ここから先は、やはり見ざる、聞かざる、言わざるとしておこう。

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