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榎本恵牧師のコラム

2021/09/28

あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ。   箴言9;12


「咳をしてもひとり」。これは、既存の形式にとらわれない自由律俳句を代表する俳人、尾崎放哉の有名な一句です。東京帝大を卒業し、大手保険会社に勤務すると言うエリートの道を進みながら、酒に溺れ、職を失い、妻とも別れ、友にも師にも不義理を尽くし、最後はひとり瀬戸内海の小豆島にある寺で、最期を迎える。1926年、持病の癒着性肋膜炎で、41歳の生涯を終えた尾崎放哉の人生は、典型的なダメ人間のそれに見えるでしょう。家族も財産も、そして地位も名誉も、自らの不始末で失い、ひとり寂しく死んでいくのは自業自得、そう思われても仕方のないことかもしれません。「咳をしてもひとり」。お堂に響く乾いた咳の音に、失意の中で、ひとり寂しく横たわる放哉の悲しみや嘆きを感じる、それは誰もが抱く率直な感想かもしれません。しかし私は、ここに込められた放哉の心は、果たしてそれだけであったのだろうか、そんな思いがするのです。

私が、初めて尾崎放哉の名を知ったのは、京都一燈園の同人だった石川洋師からでした。実は、放哉は、失意の中で、一燈園の門を叩き、しばらく無一物中無尽蔵の托鉢生活を送ったのです。しかし、そこでも長続きはせず、結局は離れてしまうのですが、しかし、彼は生涯にわたり、一燈園創設者西田天香さんを、尊敬し続けました。 石川洋師は、そんな放哉の「入れるものがない 両手で受ける」という句を紹介してくださり、「入れ物さえもたぬ無一物の托鉢者は、何も無いからこそ、ただ一つのあるものを知り、その供えられたものを両の手でおしいただくことができた」と教えてくださいました。差し出された供物を、受ける器さえなく、慌てて手で受けた、どことなくユーモラスな放哉の句ではありますが、その言葉の奥には、凛とした求道者の心があるのではないでしょうか。

さて、今回選びました箴言の言葉は、まことに厳しい言葉です。ある注解書には、「これは、聖書の中で個人主義の最強の表現かもしれない」(ティンデル聖書注解)と書かれていました。「あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ」(箴言9;12)。知恵を得ることも、罰を受けることも、それはあなた次第、自己責任なのです。その人がかつてどんなにエリートであったとしても、どんなに金持ちの家に生まれたとしても、それは関係ない。なぜなら信仰の世界は、個人のものだからです。それはいつも「咳をしてもひとり」であり、「その咎は独りで負う」ものなのです。

しかし、しかし、果たして、本当それだけなのでしょうか。あらゆる咎や責め、恥は、その人の行いによって、罰せられ、一生背負わされていくものなのでしょうか。いや、しかし、ここにこそ、私たちの主がおられるのではないでしょうか。私たちの罪を贖い、十字架を背負い共に歩いてくださる方がおられるのではないでしょうか。

尾崎放哉の終焉の地は、小豆島八十八ケ寺の一つ西光寺でした。そこはお遍路さんたちが、同行二人と書かれた笠を被り歩く、聖なる場所でした。最晩年、独り死の迫る自分を見つめ、誰にも聞いてもらえぬ咳をしながら、放哉は、そのひとりの自分を見つめるもう一人の方を見上げていたのではなかったか。同行二人。私たちは、独りであっても、決して一人ではないのです。あらゆるものを赦し、救う聖なる方が共にいるのです。

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