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榎本恵牧師のコラム

2019/05/29

いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。   イザヤ54:12


二つ三つばかりなるちごの、急ぎてはひくる道に、いと小さきちりのありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる。いとうつくし。(清少納言「枕草子 うつくしきもの」より)

2、3歳ぐらいの子供が、急いではいはいしながらよってくる途中で、とても小さなほこりがあったのを目ざとく見つけて、とてもかわいらしい指でつかまえて、大人などに見せた様子。(現代語訳)

孫の春が、両親の夏休みで、アメリカから帰ってきている。1歳の誕生日を過ぎたとはいえ、まだ英語を話し出すわけでもなく、何か必要とするときは「ウーウー」と声をあげ、気に入らなければ、誰彼構わず、泣き声をあげる。私が抱っこでもしようものなら、顔を歪め、大きな声で泣き喚き、お母さんの服にしがみつく。ご飯は手掴みで口の中に突っ込み、スプーンで食べさせようとしても、気に入らないものだとプイと横を向いてしまう。机の上にあるものは、辺り構わず投げ散らかし、眠くなれば機嫌が悪く、汚れた鼻や口を拭こうとすると、顔を歪め嫌がる。

けれども、そんな孫が、可愛くて可愛くて仕方ないのだ。どんなに嫌われても、抱き上げたくなるし、味のあるものは禁止といくら言われても、こそっとアイスをスプーンにのせあげてしまう。「なんでこんなに可愛のかよ。孫という名の宝物」と、どこかの演歌歌手が歌っていたが、まさにその通りだと、私のベッドでスヤスヤ眠る彼女の姿を眺めながらつくづく思う今日この頃である。

平安時代、日本人はこの幼子の可愛らしさを美しいと表現した。美しいもの、それは小さきものであり、可愛いらしいもの、愛らしいものであったそうだ。現代社会とは、ずいぶんと美しさの感じ方が違うものだと思いながらも、私たち日本人がやたらと、モネやルノワールに代表される印象派の絵画を好み、絢爛豪華できらびやかなロココ調よりも枯山水に代表されるミニマリズムに心惹かれる理由は、この辺にあるのではないかと勝手に解釈している。ある時期にだけ輝く一瞬のきらめき、今にも壊れてしまいそうな儚さ、小さきもの中に凝縮された細密さ。大きなものや強いもの、明るいものに感じる美しさとは一味違う、審美眼を私たちは持っているのかもしれない。

ところで、聖書の中にも、美しいという言葉はたびたび出てくる。もちろんそれは一義的には目に見える容姿の美醜を表現する言葉ではあるが、そんな中で少し趣を異にした言葉がある。「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」(イザヤ54:12)。この旧約の預言者の言葉を、パウロは手紙の中で引用する。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(ロマ10:15)。救いの言葉が、ユダヤ人ばかりでなくギリシャ人にも告げられ 、福音の喜びが、それを聞く者すべてに約束されていると宣べ伝える者の駆け回る足こそが美しいと言うのだ。

そして、その美しい足の持ち主によって、私たちこの日本に住むクリスチャンにも時を超え、場所を超えて、救いの福音が伝えられた。そして同時に、私たちもまた、その美しい足の持ち主として、福音宣教の業へと出かけて行く。それがこの美しい足なのだ。しかし、考えてみると、その足とは決して、私たちがイメージする美しさ、すなわち綺麗に整い、すらりと伸びた傷一つない足とは別物なのではないだろうか。

足を棒のようにして駆けずり回り、節くれだち、傷つき、いまにも折れそうな足。それこそがこの良い知らせを伝える者の足ではなかったか。パウロの、そして今までの数々の宣教者たちの、そして今も、その宣教の業に連なる私たちに至るまで、その美しい足とは、この足のことなのだ。

美しさには色々ある。それは決して美醜だけのものではない。何を美しいと感じるか、それはその人の持つ感性そのものだろう。それは理性や常識で量ることはできない。本当の美しいものを美しいと感じる心。それは愛によって形作られるのではないか。幼子を、宣教者を、そしてあらゆるものを愛する心。美しさとは愛そのものに違いない。

さて、さて、春の顔は今、ご飯粒と、よだれと、鼻水で溢れている。けれども、私にとってはこれこそが、最高の美しさなのだ。

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