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榎本恵牧師のコラム

2017/02/13

一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、   マルコ9:36


誰が一番偉いのか。それは、誰にとっても興味をそそる話題です。キリスト教の世界でも「あの牧師は、アメリカの博士号を持っているすごい先生らしい」とか、「いや、そんんなことより本当に偉いのは、ホームレス伝道をしている〇〇牧師だよ。」とか、「でも、何千人もの人にテレビ説教しているイケメン牧師が、一番じゃない」とか人はすぐ評価したがります。なんだ、キリスト教の世界も同じなのかと落胆される方もおられるかもしれませんが、「僕ら人間は、どうしてこうも比べたがる?一人一人違うのにその中で一番になりたがる」(世界に一つだけの花)のは、私たち人間の習性なのかもしれません。
実は、イエスの弟子たちもそんな私達と変わらぬ、格付けしたがる人間でした。聖書の中で、弟子たちがお互いの中で誰が一番偉いかを道中話し合っていたことが描かれています。イエスから、そのことを問われた時、一同は押し黙っていたのですから、やはり、私達と同じく、それは後ろ暗い話題であったことは間違い無いでしょう。その中で、イエスは、有名な「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」という有名な言葉を言われるのです。「仕える者になる」こと。これはある意味、キリスト教会の一つの大きな基準となっていることは間違いありません。けれども残念なことに、今度は後になる競争が始まってしまうという、愚かなことが起こるのです。
そんな中で、私は、この言葉の後に、イエスが行われた行為、すなわち「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ」というところに注目しているのです。
真ん中に立たせるということ、それは弟子たちが、イエスの周りに座り、もしくは立ち、円陣になっていたということです。真ん中があること、それはすなわち円なのです。そしてその円の中心に子供が置かれたということなのです。どこが始まりで、どこが終わりかわからない円は、誰が一番かという序列を表す直線の世界とは真逆のものです。最初のものが最後になり、最後のものが最初になる。
日本には昔「傘連判状(からかされんぱんじょう)」というものがありました。一揆を起こす時、村人たちはその首謀者が誰か分からぬように、丸く連名で署名したというのです。そうすれば、偉い人から順番に捕らえられることがない。
縦一列でもなければ、横一列でもない、丸い関係。上も下もなく、ただその真ん中に置かれた者に仕えていく世界。これが、幼子を真ん中に立たせた主イエスの円陣の意味なのではないでしょうか。そういえば、聖書には、人々の真ん中に、「手の萎えた人」(ルカ6:8)、「中風を患っている人」(ルカ5;19)、「姦通を犯した女」(ヨハネ8:3)、そして「イエス自身」(ルカ24:36)が立つ姿が随分と描かれています。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者はわたしを受け入れるのである。」これが、イエスの真ん中なのではないでしょうか。

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