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榎本恵牧師のコラム

2018/06/05

狼は子羊と共に宿り、人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅やかすものは何もない。   イザヤ11:6/ミカ4:4


最近目にするニュースにはもううんざりだ。政治の世界も、スポーツの世界も、どこに真実があるのか、と嘆くよりもむしろ、此の期に及んでよくもまあと、呆れかえるばかりだ。しかも、それら耳目を集めるニュースのどれもに、学校教育が関わっているのだから、もうこの国の将来はどうなってしまうのかと恐ろしささえ感じてしまう。

しかし、そんなふさぎこんだ気持ちの中、一つのニュースに接して、心が踊った。2018年5月21日の琉球新報電子版に「翁長知事、山城議長らノーベル賞にノミネート 県内から8氏2団体」というニュースを見つけたのだ。今の沖縄県知事翁長雄志氏をはじめ、長年沖縄の平和運動に貢献してきた8名の個人と共に、2団体として、「ひめゆり平和祈念資料館」と「一般財団法人わびあいの里」の名前が挙がっていたのだ。4月20日に平和賞候補として、選ばれたとノルウェーのノーベル平和委員会から連絡があったのだという。もちろん今年、全世界から推薦されノミネートされた候補は、330もの個人と団体であり、10月5日の発表で選ばれるのは、そのうちのたった一つであるのだから、そんな大喜びするほどのものでもないだろうと言われるかもしれない。しかし、30年の間、このわびあいの里と関わり続け、今も財団法人の理事の末席に属す私にとっては、感激ひとしおである。

20代の後半伊江島の阿波根昌鴻さんの始められた「わびあいの里」に家族ごと移り住み、共に畑で汗を流し、平和資料館で働き、訪れる人たちを案内する阿波根さんのお手伝いをさせてもらいながら、平和とは、私たちの全生活を通してこそ、実現するのだということを、体験として学ばさせてもらった。そして、この平和思想と実践を未来永劫に伝えて行くためにはこの場所を公のものにしていかねばならないという阿波根さんの思いを受け、私は財団法人の手続きのために奔走した。沖縄県庁を何度も訪ね、申請書を出しては、突き返され、10年近く全く前進せず、頼みにしていた当時の太田知事も選挙に敗れ、半ば諦めかけていたとき、突然、奇跡的に門が開き、1999年に「わびあいの里」は晴れて沖縄県の認可を得て、現在に至っている。

この「わびあいの里」の名前の由来となった京都一燈園の同人、故石川洋先生は、よくこう言われた。「榎本さん、99パーセント可能性がなくても、最後の1パーセントに神様は働くのだよ」と。立ちはだかる現実の壁を前にして挫折し、何度も諦めかけている私に先生はいつもこう励ましてくれた。そして本当にもう絶体絶命だと思ったその時に、まるで海が分かれて道が現れそこを歩いたモーセのように、財団法人の認可という道を渡り切ることができた。その時、私は本当に神の現臨に触れたような気がしたのだ。

未曾有の戦争を経験し、今に至るまで米軍基地の存在に苦しめられている沖縄を戦争の発進基地ではなく、平和の発信基地としなければならない、そんな高い志が込められた「わびあいの里」が、ノーベル平和賞の候補の一つに選ばれたことは、感激の極みであると同時に、ここに至るまでの阿波根さんたち平和を求め続けた人々の汗と涙を忘れてはなるまい。その多くはもう鬼籍の人となってしまったが、その先達たちの思いは必ず実現することを信じ、私もまたその跡を歩んでいこうと思う。

さて最後に、1964年ノーベル平和賞を受賞したマルティンルーサーキングJr.牧師の受賞演説から一部を紹介して終わりたい。彼はこの講演から4年目の1968年4月4日、1発の凶弾に倒れ、その生涯を閉じた。今年はその日からちょうど50年目である。


武器を帯びない心理と無条件の愛が現実において決定的な結論を下すだろうと、私は信じている。こういうわけで、正義が一時的には打ち負かされたとしても、結局正義は勝ち誇った悪に勝るのである。現代の迫撃砲の炸裂や弾丸が飛び交う直中においてさえ、より明るい明日への希望が依然としてあるのだと私は信じている。
(1964年12月10日ノルウェーオスロ「ノーベル平和賞受賞講演」より)

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