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榎本恵牧師のコラム

2018/01/15

見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。   コヘレトの言葉2:11


昨年12月2日、元フォーククルセダーズのメンバーだった端田宣彦さんがパーキンソン病で亡くなった。享年72歳。端田さんは、同志社高校在学中に、父榎本保郎が開拓伝道していた京都伏見の世光教会によく来ていた。93歳になる母は、「今も教会の横の台所で、『おばちゃーん』と呼ぶ端田くんの顔が忘れられんわ」と懐かしそうに呟いた。
実は、僕にも貴重な思い出がある。父が、京都の教会を辞任した後、赴任した四国今治の教会に端田さんが尋ねて来てくれたことがあった。僕はまだ小学校低学年、それでも当時「はしだのりひことシューベルツ」として、テレビで大活躍していたスターと会えるということで、教会の青年や幼稚園の先生たちが大騒ぎだったことは、おぼろげながら記憶の中に残っている。忙しいコンサートの合間を縫って会いに来てくれたマッシュルームヘアーの小柄な橋田さんに肩を抱かれ少し恥ずかしそうにはにかむ少年。その時スターと一緒に撮った写真は、今も大事にアルバムの中にある。

「人は誰もただ一人旅に出て 人は誰もふるさとを振り返る ちょっぴり寂しくて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ 人は誰も人生につまずいて 人は誰も夢やぶれ振り返る (中略)何かを求めて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ 振り返らずただ一人一歩ずつ 振り返らず泣かないで行くんだ 何かを求めて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ」(はしだのりひことシューベルツ)

「そこにはただ風が吹いているだけ」そう、ただ風が吹いているだけなのだ。どんな喜びも、どんな怒りも、どんな哀しみも、そしてどんな楽しみも、過ぎてしまえば、そこには思い出という風だけが吹いている。その風には全く実体はない。
旧約聖書には、知恵の書と言われるものがいくつかある。ユダヤ民族の人生哲学というか、いわゆる処世術とは一味違う神の知恵。その中の一つに「コヘレトの言葉」というものがある。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(コヘレト1;1)という有名な言葉ではじまる知恵の書は、その空しさを、「風を追うようなことであった」と独特な言い回しで表現する。この短い書の中で、九度繰り返される「風を追うようなこと」。全てを見ようとしたことも、すべてを知ろうとしたことも、なしてきた業績も、集めてきた富も、ライバルとの間の競争も、すべては空しく、手の間をすり抜けていく風を捕まえようとするようなもの「なんと空しいものか」と知恵者は言う。
ところが、僕たち人間は、この追うことのできない風にいつも翻弄され続ける。追いかけても追いかけても、永遠に得ることのできないものに。そのあげく、僕たちはいつまでも過去を振り返り、かつての栄光にしがみつき、その失敗を誰かのせいにし悔い続ける。けれどもそこにはこの空しい風が吹いているだけなのに。
「振り返らずただ一人一歩ずつ 振り返らず泣かないで行くんだ 何かを求めて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ」端田さんの優しい歌声が聴こえてくる。風を追うことは、もうやめよう。風に振り回されるのはもうごめんだ。風は空しく、風には実体がない。けれども同時に、聖書は「風」にもう一つの意味を与えている。それは「息」そして「霊」と言う意味だ。すべてのものに命を与え、力を奮い立たせる「息、霊、風」。僕たちは振り返らず、真っ直ぐ前を向き、空しさと言う風ではなく、神の息、神の霊として吹く風を身体いっぱいに吸い込んで歩んでいこうではないか。

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