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榎本恵牧師のコラム

2025/06/04

足の裏で読む聖書   第2篇「即位させ給う神」


詩篇第2篇は、「メシアの詩篇」、また「王の即位の詩」といわれている。古代オリエント社会においては、新しい王が誕生するたびに、その支配下にある国々では反乱が起こった。新王の即位に際して、まず取り組まなければならない緊急の任務は、臣従している諸侯や諸国民の反乱を鎮圧し、大帝国の勢力を固め、基礎を据え直すことであった。

「なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。『我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう』」(2–3)

いつの時代も変わることなく、人間の歴史の中で繰り返されてきた権力者の姿が、この詩の背景にあることは間違いない。

しかし、これを単に、権謀術数を駆使して権力を得ようとする王の即位の詩として片付けることはできない。ユダヤ民族の国家が歴史上、世界支配の野望を実現させたことは一度もない。むしろその逆に、彼らは強国に挟まれながら、その支配からなんとか独立を保とうと懸命になっていた。にもかかわらず、その弱小国家が、その王の即位に際して「なにゆえ、人々は騒ぎたち、人々はむなしく声を上げるのか」(1)と詠うのはなぜか。それは、彼らが王の即位の背後にある神の見えざる御手、そしてその御心を知っていたからにほかならない。

「天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り、憤って恐怖に落とし、怒って彼らに宣言される」(4–5)

神が笑う。権力者があらゆる知恵と力を尽くし、地位を守ろうとし、ある者を欺き、ある者を脅す。その姿を、神は笑うのだ。人間の愚かさ、欲深さを、神は笑い、嘲り、怒り、恐怖に落とす。王がその地位を得るのは、その王に特別な資質があるからではない。ただ、主が「聖なる山シオンで、わたしは自ら王を即位させた」(6)と宣言されたからにすぎない。

私たちは誰しも、よい地位を得たい、名誉を受けたい、富を築きたいと願う。そしてそのためには、どんなことでもしようとする——それは今日に限らず、人間の歴史の初めから続いてきた傾向である。しかし、そんな私たちを笑う神がおられる。嘲り、怒って恐怖に落とし、なおも私たちに語りかける神が。

詩篇第2篇は、新約聖書においてもしばしば引用される。ペテロとヨハネが「美しい門」の前で足の不自由な男を癒し、その後、議会で取調べを受けたのちに釈放され、仲間たちのもとに戻ったとき、そこにいた信者たちは心を一つにして祈った(使徒言行録4:25–26)。その祈りの中で、この詩篇が引用されている。また、パウロがアンティオキアの会堂で説教を求められたときにも、この詩篇を引用した(使徒言行録13:33)。いずれも、「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」(7)と詠われる即位した王こそ、主イエス・キリストであると告白している。

小さな群れにすぎず、絶えず迫害や追放の危険にさらされながらも、信者たちはこの「即位させ給う神」と、その王であるイエス・キリストを信じ、「畏れ敬って主に仕え、おののきつつ、喜び踊れ」(11)と声を上げるのだ。

私たちが信じる神とは、人間のあらゆる権謀術数を笑い、どんな困難の中にあっても、主に従って歩む者をその国を受け継ぐ者として守り導いてくださる方である。信仰生活を全うしていく中で、必ず直面する問題——それは、詩篇第2篇に描かれているような、地上の王や支配者、主に逆らう者たちによる攻撃であろう。それはときに、家族や地域、あるいは国家からの迫害というかたちで私たちを苦しめることもある。

しかし、どんなときも主は必ず共にいてくださる。

「いかに幸いなことか、主を避けどころとする人すべて」(12)

私たちの拠りどころは、この主をおいて他にない。

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