トップページ > 榎本恵牧師のコラム > お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。 
榎本恵牧師のコラム

2017/08/16

お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。    ヨナ3:9


朝から蝉の声がけたたましく響いている。やかましい。庭を吹き抜ける風は、熱風だ。暑すぎる。侵入してきた一匹の蚊を叩こうとしても空振りばかり。腹がたつ。冷凍庫の中の買っておいたはずのアイスが一本もない。誰だ食べたのは。一日中部屋に閉じこもり、クーラーにあたっていると、電気代がと声がする。じゃ、どうしろと言うんだ。

うだるようなこの暑さの中で、底なしの沼へと落ち込んでいくように、次から次へとよくもまぁ、これだけ不平不満が思いつくものだ。けれども、人間とはまさにこの欲求不満の生き物に他ならない。暑ければ暑いと騒ぎ立て、寒ければ寒いと文句を言う。お腹が空いたと泣きわめき、喉が渇けば、死にそうだと恨み言を言い募るのだ。

エジプトの地からモーセに率いられ奇跡的に脱出することのできたイスラエルの民も、その道行の中で、何度この不平不満を繰り返しただろうか。水がないと言っては騒ぎ、食べるものがないといってはモーセにくってかかる(出エジプト15、16)。天からの降ってきたマナ(木から分泌する甘い樹液だったろうと言われている)にも飽きてしまい、今度は肉が欲しいと泣き言を言う(民11)。そしてついには「あなたたちは分を越えている。(中略)なぜあなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか。」(民16:3)と徒党を組んで、モーセとアロンに逆らうのだ。よくもまあ、神はこのイスラエルの民を選ばれたものだと聖書で読むたびに思う。けれども、この神に反逆する民の姿は、この暑さには耐えきれませんと、天気を恨み、目の前の八方塞がりの状態にどうすることもできないとふて寝し、人生は困難と苦悩に満ちているものだとあきらめ顔でいる私自身の姿なのではないか。私など、あの出エジプトの道行きで、真っ先に神によって滅ぼされ、殺されてしまう存在であったにちがいない。では、どうすれば私たちはこの不平不満の人生から脱出することができるのだろうか。昔から言われるように、ただ黙って耐え忍ぶことや、災難の過ぎ去ることを辛抱することが、このことの解決策なのか。

旧約聖書の中に、ヨナという預言者の物語がある。神の命令に逆らい、行き先とは違う船に乗り、大嵐に遭遇し、船から海へと投げ込まれ、三日三晩大きな魚の腹のなかに閉じ込められる。しかしそこでヨナは神に悔い改め、再び陸へと吐き出される。大変短いヨナの物語ではあるが、ことごとく神に逆らい、不平不満を述べ、とても聖なる預言者とは思えない人間臭いヨナの言動に、私などとても親近感を覚えるのだ。ところで、この物語には続きがある。そのヨナが、ニネベの街を周り終え、暑さの中で喘いでいたところ、神はとうごまの木を一日のうちに生えさせ、その木陰で、彼は涼むことができた。ところが、その翌日神は虫に命じて、そのとうごまの木を枯れさせ、熱風をヨナに吹きかけられた。これにはヨナも堪り兼ね、もう自分は死んだほうがましだと呟いた。その時神はこう言われるのだ。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」(ヨナ3:9)と。

「それは正しいことか」私の中で湧き上がってくる不平や不満、首をもたげてくる不安や諦め。けれどもそれは正しいことか、私が見ているものは何か、トウゴマか、暑さか、一匹の蚊か、それとも立ち塞がる大問題か。それらが取るに足らないものだというのではない。けれども、そこに目を奪われ憤り、また落胆する私の姿は果たして正しいのか。その神の呼びかけに、耳を傾けるとき、私の心は自然と静まってくる。暑い夏を変えることはできない。目の前の問題から逃げ出すこともできない。けれども、それは正しいことかという神の問いかけに静かに聞いていくことはできる。暑い夏も過ぎてしまえば、早いものだ。

行事案内

アシュラム誌

毎月1日発行の会報「アシュラム誌」全6ページをPDFファイルでご覧いただけます。

写真ギャラリー

PAGE TOP