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榎本恵牧師のコラム

2023/07/31

貧しい人と虐げる者とが出会う。主はどちらの目にも光を与えておられる。   箴言29:13


「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:43−45)。

「愛敵」の教え、これぞキリスト教と言うべき、この「敵を愛す」という教えはしかし、それが単純明快であればあるほど、困難なものとなります。かつて、プロセインの鉄血宰相と呼ばれたビスマルクは、この教えを指して「山上の説教がなければ、政治はもっと単純なのに」と呟いたそうです。しかし、聖書は、これを、私たちが天の父の子となるためだと言い、最後には、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」と命じるのです。「天の父の子」も「完全な者」もあまりにもハードルが高すぎて、そんなものにはなれるわけがないと思うのは当然のことでしょう。敵を愛することも、右の頬を打たれたら左の頬を向けることも、個人的には理想的聖人の生き方に違いないが、この「悪魔世に満ちる」現実の問題の解決には、ただ「敵を愛し、悪に刃向かうな」だけでは、それこそ害悪にすらなりかねない。そんな声も聞こえてきます。

実は、新約聖書の中で「神の子」という言葉が使われる場合、イエスキリストを表す場合以外はみな複数形になるそうです。たとえば、山上の説教の「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)がそうです。そして、ここでいう「天の父の子」でも、同じく「子」は複数形が用いられているのです。「神の子」、「天の父の子」それは、私たちにイエスになれと言っているのではありません。そんな単数形の「神の子」になるなどと言うのは、自らを神と呼ぶカルト宗教の教祖だけです。それはとても危険なことでしょう。そうではなく神を信じ、こんな私たちでさえも、子と呼んでくださり、その身内の一人に数えてくださる方の言葉に従おうとする者こそが、ここで言う「完全な天の父の子」なのです。

「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない者にも雨を降らせる」お方を信じる。私たちは、悪人には温かい太陽など昇らないで欲しいと願い、正しくない者は、雨の恵みを受けるなと祈ります。しかし、神はそうではいのです。「貧しい人と虐げる者が出会う。主はどちらの目にも光を与えておられる」(箴言29:13)。この受け入れ難い神の真実を受けいる者となること、これこそが神の子なのです。「貧しい人にこそ光を、虐げるものには闇を」と願う私たちが、この受け入れ難い神の愛を認めるのです。神は共に光を与えられる、そこから始めるのです。

以前、この「愛敵」の聖書箇所を分かち合いした時、一人の若い女性が、こう言いました。「先生、ここで神様が『完璧な者になりなさい』と言われなくて、とほっとしました」と。確かに「完璧」と「完全」では、何か言葉の感じ方が違います。「完璧」には、周りに壁を築き上げ、それこそ何の落ち度もなく完璧にこなす、何か孤高の人のようなイメージがあります。一方、「完全」には、決して一人では完全になどなれない者同士が、その欠けたところを補い合い、それでも足りないところを本当の完全なお方に包み込まれ、「完全」になる、そんなイメージが湧いてきます。ここに「神の子」が複数形で言い表されている意味があるのではないでしょうか。私たちは、どうしても好きになることのできないものがあります。けれどもそれに、神の愛をもって向き合い、同時に、お互いの欠けを補いながら、愛の神の完成に向かって進んでいく。それこそが、誰の目にも平等に光を与えてくださる、神の求めておられることなのではないでしょうか。

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