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榎本恵牧師のコラム

2020/06/29

主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。   箴言1:7


先月から、会議ソフトZOOMを使って「ビジネスマンのための箴言講座」というものを始めた。お世話になっている東京の企業コンサルタントのMさんと一緒に、彼のやっている勉強会の参加者を中心に月に一度、箴言を黙想し、分かち合うという、まさにアシュラムの集会と同じことを行なっている。

最初、この提案を受けた時、果たして人が集まるのかなと半信半疑だったが、なんと定員15名があっという間に集まった。もちろんそこにはMさんの人徳と強いリーダーシップがあったのだが、それにしても、殆どがノンクリスチャンで、聖書は初めて読むという人ばかりである。「箴言」「黙想」「分かち合い」などという耳慣れない言葉が飛び交う中、よくこんな内容もわからないものに参加することを決め、しかも会費まで納めてくれるのかと(教会でさえ、初めてその扉を開けるのに勇気がいるのに)半ば訝しがっていたのだが、それは杞憂に過ぎなかった。

みんな、真剣なのだ。この混沌とした世界の中で、よりよく生きたいと願っている。彼らが聖書に求めているのは、一服の清涼剤のような、苦しい時の神頼みなどではなく、この困難の時代においても生き抜いていける生き方そのものなのだ。

Mさんは、クリスチャンのコンサルタントなのだが、父榎本保郎がいつも口にしていた、「現実社会で生かされない信仰は、信仰ではない」という言葉を大切にしてくれている。神様は決して机上の空論でもなければ、神殿の奥深く、閉じ込められている方でもない。まさに現実の只中で、私たちを天から見下ろし、私たちのすぐそばで、私たちと共におられる方なのだ。

旧約聖書の知恵文学である「箴言」は、まさに古代から現代に至るまで、生きとし生ける人間全てが、神を畏れ、従いいくための知恵の宝庫である。それはユダヤ民族だけにとどまらず、またキリスト教やその信奉者だけのものでもない。神によって創造されたあらゆる被造物が、学ぶべき生き方の根本なのだと私は思っている。箴言の言葉の一つ一つは薬をもって、すぐに痛みを止めたり、病気を治すようなものではなく、鍼灸の鍼のように、体全体をとおし、ゆっくりとじんわりと効いてくるものである。 私は、最初の講座で、「主を畏れるとは、主なる神の存在を知ることである」と言った。モーセが、燃える柴の不思議の中で出エジプトの召命を受けた時、神は自らの名を「私はある。わたしはあるという者だ」(出3:14)と告げられた。

神は信じるのではない、神の存在を、「ある」ことを知ることなのだ。その時人は、神を畏れ、その前にひれ伏す。

「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)。この有名なフレーズの、対になっているのは「無知な者は知恵も諭しをも侮る」という言葉である。この「侮」という漢字には、人を暗くする、人を無視するという意味があるそうだ。「侮る」とはその存在を知りながら、それを認めないでいること。知恵と諭しを侮るとは、その知恵の初めである、神をないものとすることなのだ。近代的思想や科学技術の進歩発展の中で、神なき世界を生きる私たちに、箴言の語る知恵とは、神の存在そのものを再発見し、認めることに他ならない。厳しい現実の中で、日々闘いながら生きている現代人にとって、神の存在は決して絵空事ではない、そのことを、私は知恵を求める人たちに魂の鍼灸師となって伝えていけたら幸いである。

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