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榎本恵牧師のコラム

2021/12/31

義の道にはいのちがあり、その道筋には死がない。   箴言12:26


ビートルズのドキュメンタリー映画「ゲットバック」。1970年に公開された「レット・イット・ビー」の再編集版を、ディズニー+の配信で見ることができる。

ビートルズ解散直前の刺々しいヒリヒリした雰囲気の漂う「Let it be(なすがままに)」からなんとか仲違いからの解散だけは避けようと努力するメンバー同士の愛が溢れる「Get back(戻れ)」へ。50年の歳月は、その解釈をこんなにも変えるのだ。ルーフトップコンサートで最後に叫ぶように歌う「ゲットバック」のポールの声も、もはやメンバーに向かっての呼びかけではなく、コンサートを止めようと介入してきた警察官に向かっての雄叫びのように聞こえるから不思議なものだ。

映画の中で、ポール・マッカートニーは、「the long and winding road(長く曲がりくねった道)」を切々と歌っている。「why leave me standing here(なぜ私をここに立たせたままにするのか)」、「many times I’ve been alone(何度も私は独りだった)、「lead me to your door(あなたの扉へ導いてくれ)」。これらの言葉には、解散を前にして困難に直面するポールの内面が、感傷的に歌い込まれている。しかし、それも今や50年の時を過ぎ、オリジナルメンバーのジョン・レノン、ジョージ・ハリスンを失いながら、残された道を、長く、険しいその道を、向こうの扉まで行こうという、ポールの決死の覚悟の歌に聞こえてくる。

2021年の、私たちアシュラムセンター最大の出来事は、シメオン黙想の家の庭に完成した「ラビリンス」だ。試しに、グーグルアースで、「ヴォーリズ旧佐藤邸」を見てほしい。なんとそこには、このラビリンスをつくる前の、実験で広げた布製のラビリンスが映り込んでいるではないか。私たちの願いを知ったイエズス会の山岡三治神父が送ってくれた、白い布に、緑の線で描かれたラビリンス。たった1日広げた日に、たまたまグーグルアースの撮影が重なったのだ。偶然とは言え、全く不思議なことだ。

聖なる道、巡礼の道、そして人生の道であるラビリンスは迷路ではない。その道は、11周の円を描きながら中心を目指す。しかしそれは複雑で、まがりくねり、想像以上に長い。けれども、そこは行き止まりも別れ道もない一本道であり、その道なりに歩いてさえ行けば、必ず中心へたどり着ける。独りでも、何人でも、どんな速さで歩いても構わない。途中で降りても、追い越しても、追い越されても問題ない、「一つの『正しい歩き方』は無く、場を共にいる人への配慮がある限り、自分なりに歩くことが」(「アンナとシメオン」より)できる。それがラビリンスなのだ。 果たして、こんな自由で美しい、優しい道があるのだろうか。私たちの歩む人生の道は、そんな甘美な道であるのだろうか。

聖書の知恵はこう言う。「義の道にはいのちがあり、その道筋には死がない。」(箴言12:26)と。私たちが歩む人生の道は、死もなく、義しく、素晴らしい道でありたいと誰もが願うだろう。残念ながら、そんな道はどこにもないと、私は思う。私たちの目の前に広がるのは、いつも険しく、曲がりくねった道ばかりである。けれども、どんなにまがりくねり、独りぼっちで、立たされたままのような辛い厳しい道にあっても、そこに共に歩み、その足元を照らし、導いてくださる方がおられる時、その道は、永遠の命へと続く道となるのではないか。義の道は、どこかにある道ではなく、誰と行くかの道なのである。

さあ、もうすぐ新しい年が始まろうとしている。これから向かっていく、新しい年を、私たちはどう歩むのだろう。それはいつもの変わり映えのしない道なのか。進むのも戻るのも嫌になってしまう道なのか。それともただ塞ぎ込み、座り込んでしまう、そんな道であるかもしれない。けれども、たとえそれが、どんな「the long and winding road(長く曲がりくねった道)」であったとしても、主と共に歩む時、それはいつも義しく美しい。その道に従って歩む時、私たちは、必ずその扉を開くことができる。そしてその扉の向こうにあるのは、死ではなく、永遠の命なのだ。

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