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榎本恵牧師のコラム

2021/02/01

わが子よ、もし友人の保証人となって   箴言6:1


昨年の4月から、フェイスブックを始めている。次男が、コロナで仕事がキャンセル続きになって困っていた私に、YouTube、zoom、そしてFacebookと矢継ぎ早に使うよう勧めてくれ、今では「アシュラム運動はzoomと相性がいいね」などとしたり顔で言うまでに。ついには、2月のブラジルサンパウロでのアシュラム集会も、こちらで録画した映像を送り、字幕をつけ、参加者はそれぞれ、携帯電話で見るのだそうだ。やはり説教は、顔と顔を合わせて話さなければなどというのは、このコロナ禍の時代にあっては通用しないのかもしれない。

しかし、いとも簡単に、世界中の人々を結びつけ、瞬く間に広がっていくインターネットの世界は、便利であると同時に怖いものでもある。先日も、フェイスブックに北海道のNさんのこんな投稿を見つけた。「僕は未だFacebookに書込み初めて一年も経過していませんが、世界の皆さんと繋がれる解放感とともに様々な生きざまの呼吸を感じることができてとても嬉しいのですが中には巧妙に人を騙して貧しい僕からも金を取ろうとする詐欺師がいます。このフェイスブックのメッセージには天使もいれば悪魔もいる。」

なんと彼は、2度も「寄付金詐欺」にひっかりそうにになったのだという。1回目はベネズエラから、2回目は海外在住の日本人女性から、「神の霊感によりあなたを見つけた」という厳かな書き出しとともに、自分の財産を分与したいという申し出があったのだという。この時点で怪しいのだが、人の良い彼は、先方とやりとりをし(しかも2回も!)あげく印紙税だ、口座開設手数料だと言って、お金を振り込む様、指示されたという。ようやく彼も怪しいと思ったのか、問い詰めると連絡が途絶えたという。なんともお粗末な詐欺未遂事件だが、こんなことが、私たちの周りには溢れており、いつ自分が被害者になってもおかしくない。そんな世界に私たちは暮らしているのだ。

ところで今回の箴言は、保証人になって、罠に陥り、引っかかった時にはこうして自分を救えと戒める。「命は友人の手中にあるのだから、行って足を踏み鳴らし、友人を責め立てよ。あなたの目に眠りを与えず、まぶたに微睡むことを許すな」(箴6:3−4)と。自分を陥れた友人を休むことなく、訴え続けよと激しく迫る。ユダヤ人社会に限らず、日本に住む私たちにとっても保証人になることは大変なリスクを伴う。私たちの周りにも、友人の連帯保証人になり、とんでもない債務を背負ったという経験を持つ人もいるし、中には、「親からの遺言で絶対人の保証人にはならない」と堅く誓っている人もあるだろう。しかし、いずれにしても、私たち日本人は、騙す人も悪いが、騙される方にも原因があるのではと思い、泣き寝入りしてしまうケースが多いのではないか。自業自得や信じた自分が馬鹿だったと、繰り言を言い、相手を責めるより自分を責めてしまう。ところが、聖書はそうではなく、その騙したものを責め立てよというのだ。「水に流す」日本文化と「石に刻む」ユダヤ文化の違いと言ってしまえば簡単だが、なんとも、どう解釈して良いものか難しい聖書箇所ではある。

ところが、先日の「zoom箴言を学ぶ会」で、一人の友がこんな風にこの箇所を解釈した。私たちは、自分をこの保証人の方に置いて考えるけれども、実はこの保証人とは、主イエスキリストのことではないか。私たちの罪という負債を負うてくださったイエス。「私たちをこのようになるのにふさわしい者としてくださったのは神です。神はその保証として”霊”を与えてくださったのです」(Ⅱコリント5:5)とはパウロの言葉である。神はこの私たちを信用し、イエスをに字架を負わせ、聖霊までも与えてくださった。しかし、そのことを私たちはすっかり忘れてしまっている。足を踏み鳴らし、責め立てられねばならないのは私たちの方なのだ。

箴言の言葉も、こう読んでみれば、新しい光がさしてくる。zoomでの聖書の学びは、新鮮な目を開かしてくれる。

それにしても、Facebookに友達申請してくる、「ベネズエラのアレハンドロ・ホセ・ヨハン」と「海外在住のミヤモトハズキ」だけには注意しよう。彼らは本物の悪だ。

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