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榎本恵牧師のコラム

2020/09/30

そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられるであろう。   箴言3;2


「息ができない」と懇願するにもかかわらず、警察官によって、8分46秒頭部を強く押さえ込まれ、
その命を奪われたジョージフロイドさんの死から4ヶ月余り。今もアメリカから聞こえてくるニュースは、黒人の命が、易々と奪われていき、それに対する抗議デモが繰り返されるにもかかわらず、人種差別と分断はますます広がっていく、かの国の暗澹たる現実ばかりだ。

では、かく言う私たちの国の現実はと言うと、どんなに政府が不正にまみれていようとも、もう抗議のために街頭に出る力さえ失ってしまっているように思える。もちろん、過激化し、それが暴動にでもなるようなものには、誰も加担しようなどとは思わないが、それにしても、この生煮えのような今は、どうしたものなのだろう。

先日、多くの人から惜しまれながらも、九十七歳で天に帰っていかれた台湾の李登輝元総統。私は、幸運にも、彼と一度お会いしたことがある。台湾愛修会(台湾アシュラム)を支えて下さっていた故高俊明牧師にご案内いただき、淡水にあった李登輝氏のオフィスを表敬訪問させていただいたのだ。その時は、もう政界を引退なさり、個人的な立場で活動されておられたが、それでも八十歳を超えた老人とは思えぬ、背筋のしっかり伸びた矍鑠(かくしゃく)とした姿だった。私たちのアシュラム運動にも理解を示してくださり、困難な立場の中で、決定を下していかなければならない時はいつも、観音山に1人登り、静かに神に祈るのだと話して下さった。帰り際には、10数名いた私たち団体の全員と熱い握手を交わしてくださり、日本のクリスチャンは、もっとしかりしなさいという言外の想いがひしひしと伝わってきた。

そんな李登輝氏が、日本の新渡戸稲造の著した「武士道」について書いた「武士道解題」と言う本がある。彼はその本の中で次のように書いている。

「なぜそのような(武士道)伝統的価値観を大切にする必要があるのでしょう。その理由を、キリスト者としての言葉で言うならば「 公義」の問題に帰一するから、と言うことになります。「公義」とはすなわち公の義。つまり「ジャスティス(justice)のことです。目下のところ、日本人の中には、このジャスティスに対する真っ当な感覚を見失っているような人々が多くなってきているようにも思います。」

「今から二千七百年も前のユダヤ人社会には、搾取階級があり農民階級を徹底的にいじめ抜いていた。すなわち、社会的な正義(公義)が全く達せられなくなっていたのです。そこで、農民出身のミカが預言者となって、本来のあるべき社会的な正しさ、つまり「公義」を説き始めた。それが現在の世界にも立派に当てはまる普遍的な真理を書き記した「ミカ書」なのです。」(「武士道」解題より)

その生涯を、台湾の正義と平和の実現のために捧げられた李登輝氏は、ご自身の政治姿勢の拠り所として、旧約聖書のミカ書をあげ、そこに書かれている「公義(ジャスティス)」は、いつの時代にあっても、世界のあらゆるところに当てはまる普遍的な真理であると言うのだ。そして、明治日本の新渡戸稲造の説く「武士道」の中にこそ、この本来あるべき正しさが、すなわち公義があると言う。

そんな李登輝氏はきっと今の私たちを見て、「日本人よ、いや全世界の人々よ、この聖書の、武士道の、いやいつの時代も、どんな宗教にも共通する普遍的真理である公義を忘れるな」と言うのではないだろうか。

Black Lives Matter(ブラックライブズマター)運動として、全世界に広がった反差別運動のデモで、多くの人々が手にするプラカードの中に「No justice,No peace!」(ノージャスティス ノーピース)と書かれた言葉を見つけた。正義なくして平和なし。平和とは、決して個人の心の平穏無事のことを指すのではない。この世界に公義が、普遍的真理が現れるように、祈り求め続けること、これこそが真っ当な感覚を見失ってしまった私たちに託された先達からの大切な諭し、箴言ではないだろうか。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ6:8)。

アメリカも、台湾も、香港も、チベットも、ベラルーシも、インドも、その正義と平和はみな、私たちにとって、決して他人事ではないのだ。

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