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榎本恵牧師のコラム

2019/12/30

神は光を見て、良しとされた。   創世記1:4


2020年がいよいよ始まる。オリンピックイヤーと言われるこの年は一体どんな年になるのだろうか。今年九十五歳のなる母は、東京でのオリンピック開催が決定した時、「今度のオリンピック見るまでは死ねない」と豪語していたが、どうやら実現しそうだ。(最近では、「今度の渋沢栄一が肖像の新紙幣を使うまでは死ねない」と言っている。)いずれにせよ、いよいよ東京五輪が、あと半年もすれば開かれる。

総理が、「アンダーコントロール」と高々に宣言した福島原発の汚染水処理の問題も、オリンピックロゴマークの剽窃の問題も、完成した新国立競技場のデザイン決定に関するドタバタも、旧態依然とした選手育成組織の問題も、そして何よりもオリンピック誘致に関わる収賄の問題も、なにもかも忘れ去り、ひたすら五輪の成功を目指しひた走る。それが、2020年のこの国の姿になるのかもしれない。いろいろあったけれども、終わってみれば全て良しではないか、と語られることだろう。まだ随分と先の話だが、2020年の年末には、清水寺の貫主が一筆書きで「輪」と書き上げる。そんな光景が思い浮かぶ。(残念ながら調べてみると、すでに2013年「輪」の字は選ばれていました)。全ては予定調和なのだ。

ところで、この機会を狙い、いやそれを見越してと言おうか、日本は今、官民挙げて、観光に力を入れている。私たちの住む近江八幡にも、気がつけば随分と外国語が飛び交うようになった。訪日外国人数4000万人という目標を掲げ、「おもてなし」がこれでもかというほど行われる。日本人ののきめこまやかなサービス精神に驚く外国人の話題や、その出会いの美談が、メディアを通し垂れ流される。こちらもきっと、今年の年末は、外国人観光客数の目標達成いやそれ以上の数を叩き出したと、興奮しながら喜ぶニュースが流れるに違いない。

実に「観光」とは「光」を観ることにほかならない。その国にある「光」、それが人を呼ぶのだ。光に引き寄せられ、人は動き、人は集まる。けれども、おかしな光もある。「日本の観光地は、もっと夜遅くまで遊べるように整備を急がなければならない」、そんな声も聞こえてくるなかで、夜でも遊べる不夜城のような場所、華やかないイルミネーションが誘蛾灯のようにかがやき、射幸心をあおりたてる、そんな光の場所を作ろうと、今法律までが定められようとしている。

しかし、それは本当の光なのだろうか。神が見て良しとされた光とは、そんな光だったのだろうか。何もかもがお金や経済で換算され、価値が決められていき、価値のないものは早々に捨て置かれていく。暗いことや不味いものは見せないようにと、影などどこにもないように、眩しい光線が浴びせつける。けれども、光のあるところには必ず影があり、その光が強ければ強いほど、影は濃くなっていくのだ。神が見て良しとされた光は、どう考えても、今私たちが見ている「観光」とは別のような気がするのは、私だけではないだろう。必ずや、この偽物の光は、そのメッキを剥がされ、その醜い姿を晒すに違いない。年の初めから、そんな暗い話をするな、水を差すようなことを言うなと、叱られるかもしれないが、私にはそう思えてならないのだ。

今年の桜を見る「観桜会」は、中止になるそうだが、果たして光を観る「観光」の方はどうなることだろう。あちこちでふつふつと湧き上がる声があるのは感じているのだが、本当に神の目から見て良しとされる光が見える年となることを願い祈っている。

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