トップページ > 榎本恵牧師のコラム > 死よ、お前の勝利はどこにあるのか
榎本恵牧師のコラム

2020/02/28

死よ、お前の勝利はどこにあるのか   Ⅰコリント15:55


2月15日から、一週間台南を中心に、台湾を訪問してきた。行く前は、今度の新型コロナウイルスのことでずいぶんと心配したけれど、実際は日本よりもはるかに台湾の方が、厳しい対策が立てられていたように思う。到着した飛行場でも、ホテルでも、レストランでも、そして教会でも、入り口で拳銃のような形の体温計を額に向けられ、1人づつ検温される。そのあと、アルコールスプレーが手に吹き付けられ、ようやく中へ入れるようになるのだ。

なんともめんどくさい儀式のように思えるけれども、早々と中国大陸からの入境者を締め出し、国を挙げてコロナウイルスの対策を進める台湾は、今のところ、対策が後手後手になってしまった感のある我が国や韓国に比べると、感染の広がりを防ぐのに成功しているように感じている。そこには、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の時に、WHO(世界保健機関)から、十分な情報を得られず、多数の死者を出してしまったという危機感の現れだろう。それにしても、大国の横槍で、未だに台湾が、国際社会の中で孤立させられてしまい、本来なら人命に関わるこの国際組織に正式な加盟が許されていないのは異常なことだ。空港で、ホテルで、レストランで、そして教会で、一生懸命検温する彼らの姿を見ながら、忸怩たる思いに駆られている。

ところで、今、村上陽一郎著の「ペスト大流行」という本を読んでいる。14世紀中葉、ヨーロッパで大流行した黒死病(ペスト)は、その当時の中世封建社会を揺るがし、ルネサンスの勃興を促す遠因にもなったと言われる。7000万人もの人が死んだというペストの大流行が、しかし今21世紀前半、目にみえぬ新型コロナウイルスの蔓延に怯えながら生きる私たちにとっても、大いなる示唆を与えてくれるのではと私は思っている。

それにしても、あのドイツの小さな村で10年に一度演じられる受難劇、「オーバーアマガウ」の起源がペストの大流行と関係していたことなど、つくづく知らなかったことが多い。もちろんフランス人作家カミュのそのままずばりの「ペスト」をはじめ、この当時ヨーロッパの人口の3分の1が亡くなったという疫病が、その後の多くの人々に影響を及ぼしたことは、言うまでもない。しかし、当時その原因がわからず、煽動家たちの流すデマ、ユダヤ人陰謀説によって、多くの無辜の命が奪われるという悲劇が起こったことは、現在起こっている中国人、ひいては東洋人への差別事件と重なり、底知れぬ恐怖を感じるのだ。「ユダヤ人が井戸に毒を投げ入れた」。洋の東西を問わず何度も繰り返される人間の愚かな姿が、今回はどうかさらされることがありませんようにと祈るばかりである。

さてそのような中で、著者村上氏は次のような興味深いことを書いておられる。「黒死病という災厄に直面して、人びとのとった行動様式には、二つの極端があった」と。そしてその二つは「現象においても、それを支える意識においても、非常に遠く離れているように見えて、その実、共通する感覚と情緒とを備えたものだったと思われる」と述べているのだ。さてその二つの行動様式とは、何か。その一つは、このペストによる不可避の死を前にして、あらゆるこの世の快楽と放縦とに身を委ねようとする態度であり、もう一方は、その死を神からの怒りであると信じ、極端な贖罪行為を行うという態度なのだ。

前者は、パウロがかつてコリントの教会のひとびとへ厳しい言葉で戒めた通り、「もし、死者が復活しないとしたら「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(Ⅰコリント15:32)と同じものであり、後者は、自分の肉体に鞭打つことで、神への罪の許しを乞うというサディスティックな行為を行う集団と化す。いずれにせよ世の終わりを思わせるようなペストによる死を前にして、少なからぬ人々が、このようなファナティック(熱狂的あるいは狂信的)な態度を取っていった。しかし、それを、私たちは愚かな中世の時代の人々のことと笑い片付けるわけにはいかないのではないか。そこには、私たちが普段見ないでいようとしている死というものに直面した時を象徴する態度があるからだ。

死を無視するのでも、死を恐れるのでもない態度。恐れ怯え、できるならばそれを見ないでおこうとするのではなく、堂々とその死に打ち勝つ者の姿。これこそが、私たちの求める究極の姿なのではないだろうか。

実は、村上氏は、この時代に現れたもう一つの人々のことを書いている。それは「メメントモリ(死を忘れるな)」と唱えた人々のことである。修道院での朝の挨拶としても知られるこの「メメントモリ(死を忘れるな)」の合言葉が、最大の標語とされたのは、実はこのペスト大流行のヨーロッパであったという。しかし、この言葉は、ただ単に明日は我が身であるということを覚悟せよという意味だけではなく、その死の先にあるものを知れ、ということをその言葉のうちに秘めている。死を忘れぬことは、すなわちその死の後に永遠に続く命の約束されていることを覚えることに他ならない。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」(Ⅰコリント15:55)とパウロは喝破した。そして「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(Ⅰコリント15:57)と声を上げるのだ。

さあ、私たちもまた、この不安と恐れの時代にあって、しかし本当の勝利者を見上げ、この時を生きていこうではないか。死を無視するのでもなく、死を恐れるのでもなく、死に勝利するものとして。

行事案内

アシュラム誌

毎月1日発行の会報「アシュラム誌」全6ページをPDFファイルでご覧いただけます。

写真ギャラリー

PAGE TOP