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榎本恵牧師のコラム

2021/05/28

真珠より貴く、どの様な財宝も比べる事はできない。   箴言3:15


ひと頃よく、クレジットカードのコマーシャルで、最後に「プライスレス」というフレーズが語られるものがあった(今もあるのかもしれない)。どんな高級な車も、服も、食べ物も、この一枚のカードさえあれば買うことができる、けれども「プライスレス」お金では買えないものがあるんだよ。そんなメッセージが、サインひとつで何でも買うことのできるクレジットカードのコマーシャルで語られるとは、なかなか粋なものであると感心していたが、どうも、中にはこの「プライスレス」を「プライス(値段)」と「レス(ない)」の無料のサービスと勘違いして、カード会社に問い合わせが来たという、笑うに笑えない話もあるそうだ。

 本来、世界はこの値段のつけることなどできないもので溢れていた。空気も、水も、太陽も。私たちの目の前に広がる、あらゆる自然は、誰のものでもない、神から与えられた無料のものであったはずだ。山、森、海、空、そして、そこにある生きとし生けるものは、すべてプライスレス、すなわち値段のつけられない宝物のはずであった。ところが人間は、いつの間にか、それに囲い込み、争い奪い、自分のものとし、価値をつけ、売り買いするようになったのだ。

最近、カール・マルクスの「資本論」が見直されているのだという。しかも、それは今までの、崩壊したソ連や一党独裁支配の中国共産党に代表される、国家主義、覇権主義的共産主義ではなく、今、世界が直面している格差社会や気候変動の危機の中で、いかにして持続可能な開発や多様性ある社会を築いていくのか、その答えとしての「資本論」というのだ。

「富」と言う言葉を、ドイツ語原語では、ライヒトゥーム(Reichtium)というのだそうだ。ライヒは英語のリッチ。「富」とは何かが「芳醇、潤沢である」ことを意味する。それは単にものが豊富にあることだけにとどもらず、地域の図書館や公園、コンサートホールなど、知識や文化、芸術なども、その社会の富となるのだ。NHKの100分で名著「資本論」の中で、大阪市立大学准教授の斎藤幸平氏はこう書いている。

「貨幣では必ずしも計測できないけれども、一人ひとりが豊かに生きるために必要なものがリッチな状態、それが社会の『富』なのです」と。

ところが、その「富」が資本主義社会では、商品化され、独占されていく。この商品と化してしまった「富」を、本来のものに取り戻すこと、これがマルクスのいう「コモン(共有財産)」という概念だというのである。

確かに、今やあらゆるものが、貨幣で計測され、商品と化していく。美味しい水、綺麗な空気、太陽の無限のエネルギー、これら「プライスレス(無料)」のものにもいつの間にか値段がつけられ、人間さえも、その価値を生産性という言葉によって商品化されてしまう。そんな社会に対し、今世界の少なからずの人たちがノーを突きつけているというのだ。

果たして、この真摯な問いかけに対して、私たちキリスト者はどう答えていこう。私は、これを、かつてのように持つ者と持たざる者の闘争ではなく、この「富」の聖書的意味を再確認することこそが、私たちに与えられた大切な役割なのではないかと思う。旧約の知恵が言う「真珠より貴く、どの様な財宝も比べる事はできない」(箴言3:15)ものとは、またイエスが喩える、畑の中に隠された宝を見つけた人が、持ち物を全て売り払ってでも手に入れたい「天の国」(マタイ13:44)とは、それを知り、それを生きることこそが、宗教が決してアヘンではないことを証明する、私たちキリスト者の役割なのではないだろうか。

神の前には、あらゆるものが、「プライスレス」値段などつけることのできない「富」なのだ。

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