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榎本恵牧師のコラム

2021/04/26

知恵は巷に呼ばわり、広場に声をあげる。雑踏の街角で呼びかけ、城門の脇の通路で語りかける。   箴言1:20


「音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかへしつつ」(訳註「二宮翁夜話」より)。二宮尊徳翁のお歌である。私たちの子供の頃は、必ず学校の校庭の片隅に、薪を背負って本を読み歩く二宮金次郎の像があった。今では、その姿とともに、大切な教えも過去のものと忘れ去られそうになっているが、知識偏重の現代にあって、実践の中から見出していく真理を説く、翁のことばは、改めて大切にしなければならないと自戒している。「記録もなく、書籍もなく、学ばず習わず明らかな道でなければ、まことの道でないのだ。だから、我が教えでは書籍を尊ばず、天地をもって経文とする」(訳註「二宮翁夜話」より)。これが二宮翁の言う学びの本質であり、真の道を見出す極意であるのだ。

翻ってみる時、私たちのキリスト教は、どうも書籍や記録に重きを置きすぎてしまっているように思える。せっかく、イエス自身が、「空の鳥を見よ、野の花を見よ」と言われても、私たちは、それを直接見るよりも、そのことを解説してくれる注解書の方を見てしまうのだ。「天地の書かざる経」が、響き渡っていると言うのに。

今月取り上げた箴言の言葉は、とても奥深く、この二宮翁の教えとも相通ずるものがあるのではないか。「知恵は巷に呼ばわり、広場に声をあげる。雑踏の街角で呼びかけ、城門の脇の通路で語りかける」(箴言1:20)と。かつて詩人寺山修司は「書を捨てよ。街に出よう」と言ったそうだが、それは何も、学ぶことなど意味がなく、ただ街で面白おかしく過ごせばいいではないか、と言うものではない。それよりはむしろ、彼はこの雑踏で語られる真理を知っていたのではなかったか。

私たちは、探さなければならないのだ。この巷で、この広場で、この雑踏で、そして通路で語りかける知恵を。私たちは求め続けなければならない。音もなく、香りもしない、けれどもいつもある天地の文字にはならない経を。

それなのに、それなのに。私たちはそれが見えない。私にはそれが聞こえない。

イエスは、そんな人間の無理解に対してこう嘆かれる。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった」(マタイ11:17)と。私たちが、この声を聞く耳を、そしてこの経を見る目を持たなければ、探しても、求めても見つかりはしない。ただ書を捨てて街へ出たとしても、それはただ虚しいだけだ。

聖書は、そんな私たちに「心の目が開かれるように」(エフェソ1:18)と祈る言葉を教えてくれる。目が開かれること。そうなのだ。これこそが、私たちが、巷にある知恵を、雑踏にある真理を知る最大の術なのだ。イエスは復活された後、疑う弟子たちにその身を現す。それは、焼いた魚を一緒に食べる巷の食事の中で、またある時は、エルサレムから急ぐ旅路の雑踏の中で。イエスは、この何気ない日常の中で、その姿を現すのだ。

「そしてイエスは、聖書を悟らせるために、彼らの心の目を開かれる(ルカ24:45)。そうだ、私たちも開いていただこう。この心の目を、そして心の耳を。その時私たちは、この巷で、この街の中で、主イエスと出会うだろう。真理は、この世に満ち溢れている。

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