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榎本恵牧師のコラム

2022/10/05

主の御手にあって王の心は水のよう。主は御旨のままにその方向を定められる。   箴言21:1


「上善如水(じょうぜんにょすい)」。「上善は水の如し、水は善(よ)く万物に利(り)しく而(しか)して争わず、衆人の悪(にく)むところに処(かた)づきて、道に於いて幾(ちか)し」。中国の古代思想家老子の言葉です。

「最高の善は、水のようなものである。万物に利益を与えながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善のたとえとしたことば」(デジタル大辞林)。国を代表するリーダーが、相次いで、亡くなってていったこの夏、私はこの老子の言葉と共に、箴言の知恵を思い起こしています。 

「主の御手にあって王の心は水のよう。主は御旨のままにその方向を定められる」(箴言21:1)。果たして、私たちの国の為政者は、最高の善をもって、決して争わず、自らは低きところに身を置き、全ての人に利益をもたらす水のようなものとなっているでしょうか。今回行われた、この国の元総理大臣の国葬儀をめぐるさまざまな騒動を見聞きしながら、そこに、人間を神とし、自らの思いのままに水の流れさえも逆行させる傲岸な為政者たちの姿があるように、私には思えるのです。

多くの人々の疑問や反対の声が上がっているにもかかわらず、強引に押し進められた今回の国葬儀。その意義や方法を巡っても、どうも納得させるしっかりとした理由がありませんでした。曰く、「歴代政権の中で最長の在籍期間であったから」とか「外国要人との弔問外交を行うため」とか、挙句の果てには「理屈じゃねえんだよ」と、まさに理屈にならないような理屈で、このことが行われていたことに、恐ろしさすら感じるのです。もはや政治家は、選挙で選ばれるときだけは、低きに身を置いているようで、実際当選してしまうと雲の上の人のようになってしまう、それがもう、私たちの常識となってしまっているのではないでしょうか。もちろん、これは日本に限らず、世界中を見渡しても、そんな指導者が、どこにいるのかと嘆きの声が聞こえます。果たして、「上善如水」の如き人物はもうどこにもいないのでしょうか。

パウロは、ローマの信徒への手紙の中でこう書きます。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威は全て神によって立てられたものだからです」(ロマ13:1)。この聖書箇所は、昔から色々と議論を呼んだところではあります。キリスト教会の抱える政治的保守性を言い表し、社会の変革の足を引っ張ってきた。そのように理解する向きもあるでしょう。もちろん上に立つ権威に、ただ無条件に従うべきありません。しかし、少なくともあらゆる権力は神の権威の元にあるということについては、私は間違いのないことであると思うのです。神の権威によってたてられたものが独裁者として横暴に振る舞うのか、または、この箴言の言葉のように謙遜で低きに流れるような善き為政者となるのか、それはその人それぞれであることなのではないでしょうか。ただし、どんな権威であったとしても、この権威を授けられた神の上に立つものはあってはならない。それが、このパウロの言葉の背後にあるのです。 今回の国葬儀とほぼ時を同じくして英国女王の国葬が行われました。その煌びやかな葬送の儀をテレビで見た方も多いことでしょう。もちろん無宗教の日本の国葬儀と英国国教会の礼拝として行われたエリザベス女王の国葬を単純に比較することはできません。しかし、私は、女王の棺がウエストミンスター寺院の聖壇の下に置かれ、正面には聖卓の上の十字架があるのに対し、会場の中央に富士山の形を模したらしい供花が飾られ、高々と故人の巨大な遺影の掲げられた日本のそれとの違いに、大きくため息が出てくるのです。

死の後も平伏すものを持つ国と人を神のように崇める国とその違いは誠に大きいものであると思います。上善は水の如し。この国のリーダーたちのために祈るものでありたいと願っています。    

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